昭和43年7月26日  夜の御理解
秋田健一郎


合楽の信心と言うか、ご信者さん方を、こう、見てみると、例えば、過去においてでも、あれ程の信心、あれだけ熱心な信心をしておった人が、えー、嘘のように、信心をやめたり、又は迷うたりして、合楽から離れていった人がいくらもあるんですけれども、結局は、あのー、どんなに素晴らしい、熱烈な信心をしておっても、一人信心では、やはり、駄目だと思う。そういう場合に弱いと思う。
もう、やはり、夫婦が、親子が、一家をあげて、例えば、信心の根というものを張っておかんと、人間ですから、どういう時に、どういう迷いが起こらんとも限らない。
そういう時に、えー、家族の者が、励ましあったり、えー、忠告しあったりしていけば、それ、そこからまた、家族勢を揃えての信心のところは、先ず、そういうところが無い。ね。途中でやめたり又は途中で迷うたりする様なことが無い。
先日の、合楽会の時に、土井の久富いさおさんが発表しておられました中に、丁度、この夏期修行が始まって、稲の取入れがもうたけなわという時であった。丁度、雨も、雨模様になって参りましたから、「今日のお昼のご祈念には、とにかく、まあ、取り上げ中でもお参りさして頂こう。」と、こう決めておったけれども、「今日ばっかりは出来ん。ここで、刈っとくだけは早よう刈ってしまわなければ、今にも降るやら分らん。」というので、一生懸命やっておられた時に、奥さんが、クニカ(?)さんですね。クニカ(?)さんが言うておられることは、「あのー、お父さん、貴方がおかげ頂きなさりゃ、お天気はおかげ頂きますが。」と、こう言われる。それで、そのー、家内の一声で,そのー、腹が決まって、「そんなら、頼んどくぞ。」と言ってから、お参りが出来たと、こう言う。ね。
もう、その辺、ね、その辺がです、例えば、なら、家内に信心が無かったり薄かったりしたんではです、それこそ、主人が参ろうと言いよっても、「もう、貴方、こげな、そのー、雨模様であるとに、今日は、貴方、ご無礼して良かろうもん。」ち言や、もう、それぎりのこと。
それを反対にですね、「もう、貴方がお参りなさると、お天気はおかげ頂きますが。」と言うて、そのー、まあ、信心の方へ、えー、こう、後押しをする家内がある。家内がそういう信心を頂いておるということがですね、夫婦、やはり、あのー、共励し合い、協力しおうて信心を進めていく、そういう信心ならですね、私は、例え、どちらかに迷いが起きても、そこんところを励ましおうて、まあ、いけれる。折角の頂いておる信心を枯らかす様な、又は迷わかす様なことは無かろうと、こう思う。
そういう意味合いにおいても、家族の者の信心というものの、程度も揃うとかにゃならん、が、勢を揃えとかなければならないなと。ね。
一人が不信心であると、ね、一寸したことがあると、それに輪をかける様に、後ろから引っ張る。それで、例えば、心にかかりながらも、信心をおろそかにするといった様な、例えば、ここ十何年の、合楽の信心の、まあ、体験から言うても、それが言える。
「あれだけ、熱心な信心しござってから、どうしてあげんコロッとやめられるじゃろうか。」という様な人が、いくらでもあるということ。ね。
そういう意味合いででも、お互いが、本当に、根を張った、しかも、家族勢を揃えての、根を張った信心を頂いておかなければならんかということが、分りますよね。
どうぞ